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こども予防歯科・矯正クリニック

クリニックについて

アイデンタルクリニック100年の歴史と未来

2019.11.25

100年の歳月を重ねてきたアイデンタルクリニックは、それぞれの時代を変革しようとした4人の歯科医師がバトンリレーしながら受け継いできた常滑市の歯科医院です。

今回は、クリニックの歴史と先代院長が行ってきたことをご紹介します。またムービーもホームページ上で公開しているので、ぜひご覧くださいね。

医院の創業と1900年代初頭

明治から大正に代わろうとする1912年に当院は創業しました。

この頃の日本というのは生活様式の西洋化が進み、産業や商業も盛んになり、欧米のような豊かさを夢見ていた時代です。しかし西洋化の恩恵は、まだ都会に限られており、地方は依然として農村社会。子どもは労働力として見なされ、栄養不良の状態。1915年当時、中等教育への進学率は、女児5%、男児で10.8%にしか満たしておらず、電気もなく、水道普及も10%。平均寿命46歳と、病に倒れる人も多くいた時代。口の中を清潔に保つ余裕はありませんでした。

そんな時、農業と漁業の常滑に地域初の「歯科医院」として開業したのが「井上歯科医院」と「後藤歯科医院」のちの「アイデンタルクリニック」です。実は前身は時計師。西洋技術の社会貢献を肌で感じた時代、大正期の歯科医学への転向は必然だったのかもしれません。

創業者の井上眞平は、西洋の歯科医学を学び、「歯科医師」の概念がなく、「歯科医」でない人が治療することも当たり前だった時代の「歯科医療」の開拓者として先駆けを作っていったのです。

2代目が進めた歯科医療の民衆化

第一次世界大戦が終わると、経済は成長曲線を描き、常滑も1000年の歴史を持つ常滑焼やこれを起源とする壺や土管などの窯業、工場、造り酒屋、建設など産業化がすすみ、農村から小さな町へ変化しました。

大戦前に医院を継いだ2代目・井上稜は歯科設備をさらに充実。抜歯する前に、詰めたり、かぶせたりして治す技術や差し歯や入れ歯の技術も向上させます。大正から昭和にかけて、歯科治療の重要性は日ごとに高まり、常滑に歯を見る医師がいるということで、朝から行列ができるほどに。

健康になること、命を育むことは、だれもが公平に受け取るべき権利と考え、2代目稜は日々黙々と「歯科医療の民衆化」に尽くし、初代の思いをさらに発展。「なるべく多くの人を診よう」という地道な一歩一歩が、「特別だった歯科治療」を「庶民の常識」へと変えていきました。

戦後復興による変化と予防歯科の思想

昭和後期、日本は第二次世界対戦の復興とともに、みるみる世界が注目する経済大国へと発展していきます。アメリカ文化に染まり、ファッションとともに、食生活も大きく変貌していきます。砂糖たっぷりのジュースやケーキなど、洋風の習慣があっという間に広がり、たっぷりの砂糖は生活に悪い影響を与えるようになってきました。むし歯がその一つです。

先代の情熱を受け継いだ3代目の井上好平は、いわゆる「むし歯の洪水時代」の到来に危機感を感じると同時に、加速して増えていく子どものむし歯に、歯科医師としての使命感に火がつきました。「歯の治療はできても、健康的な元の歯には戻らない、むし歯予防と、公衆衛生をもっと根強く、広めなければ。」と診療室から飛び出します。

役所、教育委員会、歯科医師会を回り、学校での衛生指導、健康教室、保険センターなどでの歯科検診に精を出し、その重要性を説き続けました。予防歯科の大切さを衛生思想家として地域の人々に語りかけ、広めていきました。

初代が開拓した日本の歯科医療を、2代目が歯科医療をすべての人に広く民衆化し、3代目は公衆衛生と予防思想を広めていきました。そして4代目・敬介はいま、先人たちから受け継いだ思想を発展させ、さらに進化させようとしています。単なる継承を超え、敬介独自の新しい思想を世に広く発信し始めています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。人類史は変えようとする人が、道無き道をひらいた歴史。アイデンタルクリニックは、未来への道を開く医院になります。

井上家に連綿と続く”歯科医療への情熱”というDNAを受け継ぎながら、新たに”むし歯で苦しむ人がいなくなる社会””予防によりむし歯そのものをこの世からなくそう”という思想を掲げ、歯科医療の革新を目指します。